大判例

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東京高等裁判所 昭和35年(う)1396号 判決

被告人 長岡一郎

〔抄 録〕

所論は、原判決が、被告人長岡は原審相被告人鷹取光枝と共謀のうえ、榎本悦子を殺害しかつ右犯跡隠蔽のため悦子の死体を悦子方便所脇縁側沿いの庭先に人夫をして堀らしめた穴に埋没してこれを遺棄したとの事実を認定したのに対し、要するに、被告人は右殺人及び死体遺棄の各犯行の実行行為に関与したことがないことはもちろんのこと鷹取と右各犯行をすることを共謀したこともない、原判決は証拠の価値判決を誤り経験則を無視して事実を誤認し、無罪とさるべき被告人を有罪としたものであり、破棄を免れないと主張するに帰するものである。

ところで本件の共謀による殺人及び死体遺棄の公訴事実については、原審相被告人鷹取においては、後に説明するように、捜査の当初以来その供述に幾多の変遷があつたが、被告人としては捜査の当初から原審公判の全過程を通じて終始これを争い、本件は鷹取の単独犯行にかかるもので自分は全く関係がないと主張してきたもので、当裁判所は、記録を精査して原審が取り調べた一切の証拠の内容を検討し、当審における事実の取調の結果をもこれに総合して考えた結果、被告人に対しては、右殺人及び死体遺棄のいずれの公訴事実についても罪を犯したことを認めるに足りる確証がなく、犯罪の証明がないものとして無罪の言渡をなすべきであるとの結論に到達したので、以下その理由を説明する。

当裁判所が原判決を検討しその認定した事実とこれに対する証拠との関係においてまず第一に問題として考えたのは、本件殺人の犯行の日時と右殺人及び死体遺棄の各犯罪を直接実行した者はだれかということである。

一 殺人の犯行の日時について

原判決は、本件の被害者榎本悦子殺害の日時を「昭和三十年二月三日頃」と判示している。二月三日ごろというのであるから、二月三日と断定しているわけではないとしなければならないが、死体遺棄の犯行については「翌四日」と確定的に判示していることと被告人らの主張に対する判断の二において、被告人が二月三日及び四日の両日当時東京都千代田区有楽町一丁目十四番地明和ビル内に所在したブルツクス貿易株式会社に出勤していたことを認めるに足りる信ずべき証拠がないとして被告人のアリバイに関する弁解を排斥していることを考え合わせると、結局二月三日の犯行であると認定したことになりそうである。

しかし、原判決が悦子殺害の日時を「昭和三十年二月三日頃」と認定した根拠については、その挙示する証拠によれば、捜査の段階から公判の審理にいたる過程を通じてその供述の変転きわまりなくしかも後に説明するように虚言癖をもつ鷹取本人の供述証拠、すなわち鷹取の司法警察員に対する昭和三十一年七月二十二日付供述調書(原判決証拠番号一二八)中の「私が悦子を殺したのは確か二月三日と記憶しいつも三日の日をめい日と思つている旨の供述(後出いわゆる嘱託殺人説を述べた当時のもの)及び同人の原審第二十三回ないし第二十五回公判調書(原判決証拠番号一三二ないし一三四)中の「二月三日昼前ごろ藤沢の家に帰つたとき、悦子は六畳の間にひつくりかえつたようにして首に紐が巻かれて死んでいた、そして長岡がいて、とんでもないことをしたと言つた」旨の供述(後出いわゆる被告人単独殺害説を述べた当時のもの)のほか見るべきものはなく(原審が取り調べた一切の証拠を検討してみても同様である。当審においては、鷹取が証人として人夫阿部貞夫に穴を掘らせたのが二月四日であるから、犯行の行なわれたのはその前日の三日であるという趣旨の供述を反覆しているのみである。)、むしろ当裁判所は、次のような動かし難い客観的諸状況事実の存在により、悦子はおそくとも同月二日の昼前ごろまでに殺害されていたもので、右犯行の日は絶対に二月三日ではないと認める(悦子が昭和三十年一月末日当時生存していたことは同人に会つた近隣者の証言によつて明らかである。又記録によれば鷹取が同年一月三十一日夜武蔵小杉の旅館菊家ホテルに宿泊し翌二月一日午後悦子宅に帰つたことが認められ、他方同日午後以降悦子が生存していたと認むべき証跡は全くあらわれていない。したがつて悦子が殺害されたのは同年二月一日午後ごろから翌二日の昼前ごろまでの間と認められる。)。

1 昭和三十一年八月六日鑑定人藤井安雄が拘置所内医務室で鷹取光枝の身体を検査したところ、鷹取の右前腕に爪による抓爬によつてもできる擦過傷程度のものと見られる数個の傷の瘢痕があり(鑑定人藤井安雄作成昭和三十一年九月二十八日付鑑定書、原判決証拠番号五)、その成因につき、記録により鷹取自身の供述の跡をたどると、右は猫に引つかかれてできた傷の跡であると検察官に供述し、以後原審公判を経て当審の証言にいたるまで一貫して同旨の弁解をしていることが認められるが、右弁解が措信できないものであつて、前記瘢痕が実は鷹取が悦子を殺害する際に受けた傷の跡とみるべきであることは、原判決が被告人らの主張に対する判断の一の(四)において証拠を挙げて説明しているとおりである(この結論は、原審において検察官もこれを是認しその論告中にくわしく論証しているところである。

2 鷹取は、昭和三十年二月二日の午後横浜市十全病院に入院中の小菅倉吉を訪ね、同日同人の紹介で同市内の西沢利一経営の福住旅館に宿泊したが、当時腕に繃帯を巻いていた〔原審第十三回公判調書中証人小菅倉吉及び同西沢栄祐の各供述、当審第五回公判における証人小菅倉吉及び同西沢栄祐の各供述、西沢栄祐の司法警察員に対する昭和三十一年八月三十日付供述調書(原判決証拠番号八三)、日本放送協会洋楽課長中山夘郎作成の放送番組に関しての回答書(前同八四)、司法巡査安西伊勢雄作成の昭和三十一年八月十七日付捜査報告書(前同八二)〕。そして右の事実は鷹取自身が当審第十五回公判において認めたことで、そのとき鷹取は腕に受傷しておりその傷跡が前記瘢痕となつたというのである。

3 鷹取は、昭和三十年二月二日の午前十時か十一時ごろ藤沢市三富士町九百六十八番地鈴愛染物店に悦子所有のサヤ型ツバキ模様地紋金紗一反の染替註文に行つた後、その足で同日前述のように横浜市の十全病院に人を訪ね更に福住旅館に泊つたものである〔鈴木達子の司法警察員に対する昭和三十一年九月十日付供述調書(原判決証拠番号七五)、巡査部長鈴木純夫作成の昭和三十年九月十日付捜査報告書添付の写真(前同七六)、榎本みどりの確認書(前同七七)原審第二十三回公判調書中鷹取の供述(前同一三二)、鈴木達子の日時に関する供述は、それが当時の帳簿の記載に基ずいている点からみて誤りがないものと認められる。

以上の次第で、原判決がその挙示する証拠によつてなぜ悦子殺害の日時を二月三日ごろと認定したかは、ほとんど理解し難いといわざるを得ないのであるが、強いて推測すれば、原判決が被告人らの主張に対する判断の一の(四)において「鷹取が二月三日ごろ横浜市の福住旅館の経営者西沢利一及びその妻トキに対し同旅館において腕の傷は十全病院に入院していた小菅倉吉の見舞に行つた際同人に乱暴されて受けたものと述べたと認められる」と事実を摘示しているところからみると、あるいは原審検察官がその論告において述べているように、鷹取が二月二日から右腕に受傷していたことを認めるに足りる確証がないとしたこと、換言すれば、鷹取が腕に繃帯を巻いているのを見たとの西沢栄祐の供述については、同人の記憶が絶対的に正確であるとも断じがたく、モートングールドの音楽の放送時間が二日の午後三時から三十分の間であつたことはNHK側の回答によつても明白であり、鷹取がこの日福住旅館にあらわれたことは確認されるとしても、鷹取が三日にも同旅館に泊つたことがうかがわれるから、二月三日に見たかも知れない鷹取の腕の繃帯をモートングールドの音楽の放送をきいた日である二月二日に見たと供述していることも考えられるし、又福住旅館の女中加藤千代の証言によれば鷹取は午後五時ごろ同旅館に着いたということであるが、それは証人小菅倉吉が鷹取は午後四時ごろまで病院にいたと述べていることと時間的に一致するので鷹取が三時三十分ごろ福住旅館にきたとの西沢栄祐の供述には疑がもたれるとし、さらに又証人小倉菅吉の二月二日鷹取の腕の繃帯を見たとの供述は、同人の司法警察員に対する昭和三十一年八月二十二日付供述調書にその旨の記載がなく(なお同人に付きそつていた妻の小菅すまが原審証人として繃帯に気付かなかつたと述べていることもある。)、たやすく措信し得ないところであり、むしろ同人が鷹取に前述のような乱暴をしたことがないことの証左として鷹取は病院に来る前から既に腕に繃帯をしていたと供述した疑があるとみたのでもあろうか。しかし、西沢栄祐は、原審においても当審においても鷹取が右腕に繃帯をしているのを見たのは、福住旅館の帳場のこたつに入つて二人で話をした時であり、同人がNHKの放送するモートングールドの音楽をきいていたことから音楽のことなどが話題になつた時であると供述し、なお当審においては同人が鷹取に会つたのはこの時一回だけであるとも供述しているのであつて(原判決の挙示する西沢栄祐の司法警察員に対する供述調書によれば、同人が鷹取の繃帯を見た日が鷹取が旅館に来た二月二日かあるいはその翌日であるか判然しないかのようであるが、少くとも鷹取が最初旅館に泊りに来た日が二月二日であることについて供述をにごしている趣旨とは見られないし、又繃帯を巻いているのを見たのは翌三日であるとしても、小菅から乱暴されて傷を受けて逃げて来たというような話をしているのを聞いたときであるというのであるから、ただ繃帯を見たのが三日であるかも知れないというにとどまり、話の内容上当然最初旅館に来たときすでに傷を受けて繃帯を巻いていたと見なければならない。)、同人の供述は、NHKの放送時間に関する回答と相まつて、日時に関する部分をも含め正確な記憶に基ずくものと認むべきは当然であり、時間の点につきこれとそごする他の関係者の供述こそ不正確なものとして排斥さるべきであるばかりでなく、すでに鷹取自身が当審において二月二日十全病院に行つた時右腕に繃帯をしていたことを認めているのであるから、西沢栄祐ならびに小菅倉吉の証言の信用性につき疑念をもつべきいわれは全くないといわなければならない(なお、前記3に挙げた鷹取が二月二日鈴愛染物店に悦子所有の反物の染替を註文に行つた点につき、記録によれば、鷹取は、右は悦子の依頼によつたものであると述べているが、後に説明するように、同年一月中旬ごろから下旬ごろにかけて、さきに鷹取が悦子に無断で同人所有の株式や預金を処分費消し、果ては勝手に家屋まで売却しようと図るなど数々の背信行為を重ねたことが発覚し、両人の仲が極端に悪化していた際とて、悦子が鷹取に前記反物の染替を依頼してこれを交付するというようなことは到底信じられないこと、又前記2の小菅倉吉の証言によれば、鷹取が二月二日十全病院に同人を訪ねたとき「泊るところがないから」と言つて同人に宿の紹介を依頼し、それで同夜福住旅館に泊るにいたつたことなどを考えると、それだけでも当時すでに悦子が殺害されていたことを疑うべき十分な理由があるともいわなければなるまい。)。

二 殺人及び死体遺棄の各犯罪を直接実行した者はだれかについて

原判決は、本件殺人及び死体遺棄につき、罪となるべき事実として、「被告人両名は……共謀の上……悦子の頸部を扼し、さらに帯締をもつて同女の頸部を絞めつけ、よつて同女をその場で窒息死せしめて殺害の目的を遂げ」と、又「共謀の上右悦子の死体を裸体としてつづらに詰め込み、翌四日……堀穴に右悦子のつづら詰めの死体を埋没し、もつて死体を遺棄した」とそれぞれ判示するのみで、右各行為を実行した者が被告人及び鷹取の両名であるとする趣旨か、あるいはそのいずれか一名であるとする趣旨かは、判文上明らかでないが、被告人らの主張に対する判断の一の(八)において、悦子の死体を全裸とし、つづらに詰め、これを麻繩で前記のような方法で緊縛しふろ敷包とするまでには極めて強力な臂力、緊縛力が作用しているものと認められるとしていること、その一の(九)において、悦子を殺害し、その死体をつづらに詰めふろ敷包にしたのは被告人であるとする鷹取の原審公判における供述につき、ことさら被告人に累を及ぼす意図の下に供述しているものともいい得ないとしていること、その一の(四)において、鷹取の右前腕の瘢痕は悦子殺害の際に受けた傷の瘢痕と認めることができるとしていること及びその一の(五)において、被告人両名の間には悦子の死体を悦子の元住居の庭先の土中に埋没して隠蔽することにつき互に意思連絡があつたことがうかがわれるとしていること等にかんがみると、原判示の行為のうち悦子を殺害する行為は被告人と鷹取とが共同して実行したもの、悦子の死体を裸体としつづらに詰めることは被告人が実行したもの、悦子のつづら詰めの死体を土中に埋没する行為は鷹取が実行したものと認定した趣旨であると一応解することができるようである。

ところで、本件犯行は、原判決が被告人らの主張に対する判断の一の(一〇)において述べているとおり、被告人又は原審相被告人鷹取光枝の他に犯人あることを推認できないことは記録上明らかである。そして鷹取が悦子殺害の実行に関与したと認むべきことは、前述のように鷹取の右前腕に存した傷の瘢痕が悦子を殺害した際に受けた傷の跡と認められることによつても疑をはさむ余地はない。しかし、被告人が鷹取と共同して悦子殺害の実行に当つたと認定することができる直接証拠は一つもない。ただ、「悦子を殺したのは長岡である、自分はその直後に現場に行きあわせたに過ぎない、それは人夫に穴を掘らせた日の前日の二月三日である」旨の鷹取の供述が存するのみである(鷹取がこのような供述をするにいたつた経過をたどると次のとおりである……鷹取は逮捕された直後においては、悦子を殺害した事実を否認し、自分は被告人の依頼により人夫を頼んで悦子宅の庭に穴を掘つてもらい、穴を掘り終つたことを被告人に電話で伝え、根府川の姉の家に行き、一泊か二泊して帰つてみたらその穴が埋められていたと供述していた((昭和三十一年七月十六日付弁解録取書、司法警察員に対する右同日付及び七月十七日付各供述調書、ただし七月十七日付のものは二通あるうち枚数二十三枚のもの))が、間もなく、自分と悦子とは互いに世をはかなんで心中することになり、悦子の依頼によつて自分が先に悦子の頸を絞めたところ、悦子は死んでしまい、自分は死ぬことができなかつた。悦子の死体は自分でつづらに入れ、人夫に掘らせた穴に自分で埋めてしまつたとその供述を変更し((昭和三十一年七月十七日付、七月二十二日付、七月二十三日付及び七月二十六日付司法警察員に対する各供述調書、ただし七月十七日付のものは二通あるうち枚数二十二枚の分、七月二十六日付のものは二通あるうち枚数九枚の分並びに検察官に対する同年同月十八日付弁解録書及び供述調書、以下この供述を嘱託殺人説と称する。))その後三転して、名前はいえないがある男が単独で悦子を殺害したのであり、自分はその男が悦子を殺害した直後にその現場に行きあわせたにすぎない、死体をつづらの中に入れたりしたのもその男であるが、人夫に穴を掘らせその穴につづらを埋めたことは自分が独断でしたことであると供述したが、間もなくこれまである男といつていたのは長岡一郎すなわち被告人であると言明するにいたり((昭和三十一年七月二十七日付司法警察員及び検察官に対する各供述調書、同年同月三十日付検察官に対する供述調書及び同年同月三十一日付司法警察員に対する供述調書、以下これを被告人単独殺害説と称する))以後は、死体を入れたつづらを穴に埋めることは自分だけでしたことではなく、被告人もこれに関与していると供述するにいたつた点に重大な変更を加えたことが認められるほか、細部のことにいたつてはその供述の変転きわまるところを知らない状況ではあるが、被告人が単独で悦子を殺害したものであり、自分は殺害の直後に現場に行きあわせたに過ぎないとする大綱に関する限りは、捜査官に対しても原審公判においても終始その供述を変えず、当審証人としても右の趣旨の供述を維持しているのである。)。

原判決は、被告人らの主張に対する判断の一の(九)において「被告人鷹取は被告人長岡から種々恩義を受けており、同被告人やその家族を思い自分一人で背負つて行きたいと考えたこともある(第二十五回公判調書)ことから考えると、本件殺人の犯行についてことさら被告人長岡に累を及ぼす意図の下に供述しているものといい得ない。」として、「悦子を殺害しその死体をつづらに詰めふろ敷包にしたのは被告人である」という鷹取の原審公判の供述を措信できるとして原判示事実認定の証拠として挙示したもののようであるが、右のいわゆる被告人単独殺害説なるものは、本来共同実行の趣意にそわないばかりでなく、殺害の日を二月三日と述べしかもそれが穴を掘らせた日の前日という動かし難い事実を前提としている点において、すでに当裁判所が殺害の日は二月三日ではないことを証明し得た事実に徴しても、これを採用することができないことは明らかである。その点はしばらくこれを措くとしても、鷹取が極端に虚言の多い人間であり、被告人と情夫、情婦の関係を続けていた数年間に被告人のみならず被告人の両親等に対してまでも重大な幾多の背信行為を重ねていることは、原審証人金井大治の供述(昭和三十二年五月一日十八回公判)、長岡哲三の検察官に対する昭和三十一年八月三日付供述調書及び被告人の原審公判の供述(昭和三十四年三月四日五十三回公判)等によつても疑いなく認められることであり、その人柄からいつても、原判決が言うように鷹取が被告人の恩義を感じ自分一人で罪を背負つて行こうという気持になつていわゆる嘱託殺人説を供述したものであるとは容易に信じられず、したがつてまた被告人単独殺害説がことさら被告人に累を及ぼす意図の下に供述しているものともいい得ないとは必ずしも考えられない。

又被告人単独殺害説なるものは、鷹取の司法警察員及び検察官に対する昭和三十一年七月二十七日以降の各供述、原審公判における供述及び当審における証人としての供述を通じ、悦子を殺害したのは被告人であり、鷹取自身は殺害の直後その現場に行きあわせたに過ぎないとする点においては、軌を一にするものであるが、仔細に比較検討してみると、幾多の重要な点においてその都度供述の内容が相違していることが認められ

(イ) 殺害の現場に行きあわせるまでの当日の行動につき

○藤沢で映画を見て午後三時ごろ悦子宅に帰つた(昭和三十一年七月二十七日付司法警察員及び検察官に対する各供述調書、検察官に対する同年八月十四日付供述調書)

○前夜横浜八幡橋の福住旅館に宿泊し、午前十時か十一時ごろ同旅館を出て午後悦子宅に行つた(司法警察員に対する昭和三十一年八月三十一日付供述調書、昭和三十二年六月二十六日原審二十三回公判供述)

(ロ) 死体をつづらに入れたりした後のことにつき

○私自身は悦子さんの殺人事件にかかり合いになつたことで今後どうしようかという考で頭が一杯になつてしまいその男の人のいうことは聞えなかつた、一番最後に頼むといつて出て行つたのは記憶している(司法警察員に対する昭和三十一年七月二十七日付供述調書)

○私はそれを見てその男の人を見るのも嫌になつたので早く出て行つて下さいと申しますと、なんとかかんとかいつて出て行つてしまつた(検察官に対する同年同月同日付供述調書)

○長岡はつづらをふろ敷で包み終ると、私に「大変なことを仕出かした、相談したいことがある」と話しかけて来たが、口をきくのは嫌だつたのでせき立てると、すぐに上衣とオーバーを着て出掛けて行つた、その際つづらの処置についてなんとかかんとか申していたようでしたが、判然したことは耳に入つていない(検察官に対する同年七月三十一日付供述調書)

○殺した日に長岡は私に「死体は床下に埋める、穴は自分で掘る」といつて、つづらの寸法を計るために台所にあつた竹の棒を持つて来てつづらに当てて竹棒の柄に鉛筆か爪で印をつけていた、そして私がその当時長岡に早く出て行けなどとぎやあぎやあいつていたので五時か六時ごろに出て行つた(司法警察員に対する同年八月二日付供述調書)

○死体を入れたつづらの処置については、この前お調べの際長岡がなんとかかんとかいつたが判然とした記憶がないと申したが、よく考えてみると、長岡は「畳を上げて自分で掘つて床下に埋めるとか、他によい方法はないだろうか」と相談をもちかけて来たが、私が受けつけなかつたのである(検察官に対する同年八月五日付供述調書)

○私は長岡にどうすると、死体をどうするかというのではなくあなた自身がこれを清算するか、結局自殺でもつて報いるか法の裁きを受けるかを聞いた、長岡は長々といわれたが、結局その死体の処置についてお前には一切責任を持たせないから黙つておいてくれ、みておつてくれといつた(昭和三十二年六月二十六日原審二十三回公判)

(ハ) 殺害当日どこに泊つたかにつき

○その後は根府川の姉の処に行つたかまたは藤沢の私が以前働らいていた小鈴という飲食店に行き泊めてもらつたと思うが、その点未だにはつきりしない(司法警察員に対する前同七月二十七日付供述調書)

○それからどうして横浜市に行つたのか自分にもわからないのでありますが、翌朝桜木町駅の近くにある職安に行つた(検察官に対する前同七月二十七日付供述調書)

○それから平野幸江さんの所へ行つて泊つたような気もするし、根府川の妹の家に泊つたような感じも致しますし、クラブ東京時代の同僚で大森の安斎夏子さん方に厄介になつたような気も致しますが、何れも判然致しません、とにかく何処かに一晩泊つて翌朝横浜市の桜木町駅に来ていることを発見した(検察官に対する前同七月三十一日付供述調書)

○小鈴か大森の安斎夏子方に宿泊した記憶である、外には何処にも宿つた記憶がない(司法警察員に対する前同八月二日付供述調書)

○藤沢の伊豆三旅館に泊つた気もする(検察官に対する前同八月五日付供述調書)

○八幡橋の傍の旅館(福住)に泊つた(司法警察員に対する昭和三十一年八月二十一日付供述調書)

(ニ) つづらを埋めた際の状況につき

○翌日午後一時ごろか二時ごろに私一人で人夫に掘つてもらつた穴に死体の入つているふろ敷包のつづらを廊下から引つぱり降して穴に入れ、掘り上げた土で埋めた、悦子を殺した人に頼まれてやつたことではなく、反抗的に自分が埋めた(司法警察員に対する前同七月二十七日付供述調書、検察官に対する前同七月二十七日付及び七月三十一日付各供述調書)

○穴掘り人夫が帰つて七、八分過ぎたころ長岡がやつて来て、長岡がつづらの包を一旦穴の側の踏石との間に縁側から降しておき、そして穴に落し入れたが、私の見ている範囲では抱えては入れず、押して入れたか引つぱつたかして穴に入れた記憶がある、長岡がスコツプで三分の二ぐらい埋めた時足音がして隣家の娘さんが来たら、長岡が家にとび込んだので、そのあとは自分が埋めた(司法警察員に対する前同八月二日付供述調書、検察官に対する前同八月五日付及び八月十四日付各供述調書も大体同旨)

○長岡は電話をかけて東京から直行するぐらいの時間にやつて来て、縁側の正面の物干し竿一本ともう一本を私の部屋の窓の桟にかけ、その二本の物干し竿に毛布と蒲団をかけて遮蔽し、それから座敷にあつたつづらを縁側まで引きずつて来て、それを一遍石畳の上に引き下ろしたか或いはそこからスポンと放りこまれたか、私としては石畳の上に一遍下ろされたような気がする、そしてスコツプで土をかぶせ始めたが、隣家のお嬢さんが帰つて来る足音がしたら、その仕事を放り出して家の中へ駈けこんだので、そのあとは自分が埋めた(昭和三十二年七月三日原審二十四回公判)

これらは、捜査の進展と共に記憶が喚起され、もしくは時日の経過と共に記憶が薄らいで来たがために生じたというにはあまりにも重大な相違点があり、自己の利益を図つて虚構の事実を創作して供述しているがためにその時々に自然に露呈した供述の矛盾ないしそごと認めることがむしろ相当であり、その他たとえば、記録によると、悦子所有の株式を無断で持ち出して売却したり、その銀行預金を同じく勝手に引き出して費消したり等客観的証拠に照らし疑う余地がないと認められる事実についても、悦子の依頼を受けてしたことであるなどと明らかに虚偽の供述をしているように、鷹取のいうところの被告人単独殺害説も決して真実を吐露しているものとは信じ難い。

原判決は、被告人らの主張に対する判断の一の(八)において「死体の頸部の舌骨の骨折していることから、頸部には強い圧力が前下方から後上方に向つたものとみられるし、頸部に巻いてある帯締の結束の内径が二十六、八糎で、成人の生前の頸囲は普通三十二糎内外とされているのであるから、ミイラ化した死体の生前の頸囲もほぼこれとひとしかつたものと推測され、従つて、悦子は生前、帯締で頸部を絞め得るほぼ可能な最大限度まで絞められたものであると推認できるのである。これらの事実を合せ考えるとき、悦子の死体を全裸とし前記のつづらに詰め、これを麻繩で前記のような方法で緊縛し、ふろ敷包とするまでには、極めて強力な臂力、緊縛力が作用しているものと認められるのである。」とし、これをもつてあたかも男性である被告人が悦子を殺害してその死体をつづらに詰める等の行為に関与していることの一証左としているように解せられるのであるが、一般に被害者の後方からその頸部に紐類をまわし加害者がその身体の位置を高くして絞縊する方法によれば、比較的容易に舌骨の骨折を来し被害者を死に致すことができることは、原審証人藤井安雄の供述(昭和三十四年一月二十一日四十八回公判)によつても認めることができることであり、右の程度のことは、女性である鷹取であつても単独でこれをすることができないとはかぎらない。この点については原審検察官もその論告において過去の実例を挙げて女一人による絞殺の必ずしも不可能でないことを認めている。したがつて前記鑑定書によつて認めることができる絞頸の状況から直ちに男性である被告人が悦子の頸部を紐で絞めることに関与したと断ずることは相当でない。又司法警察員小野幸江作成の昭和三十一年七月二十日付検証調書、鑑定人藤井安雄作成の鑑定書及び当審証人小野幸江の供述によれば、悦子の死体がつづらの中に強く押しこめられたような姿勢で詰められていたこと及びつづらに麻繩がかけられそれを更に唐草模様の大ふろ敷で包んであつたことが認められるが、右つづらの深さは三十五糎であるから、たとえば、鷹取がその嘱託殺人説において自分でした方法を述べているように、死体の一端を先ずつづらの上に引き上げ、次に他の一端を持ち上げ、かようにして死体の全体をつづらの上に載せ押しこむ等の方法をもつてすれば、鷹取が単独ででも悦子の死体をつづらの中に詰めることは必ずしもできないことではなく、麻繩のかけ方についても、原判決が別紙二の図面によつて図示するかけ方及び当審証人小野幸江の説明するかけ方は、いずれも結局一応このように推定できるという程度のものであつて、その実体が果してどのようなものであつたかは明らかでないといわなければならないのであるが、いずれにしても麻繩をつづらにかけてしばるだけのことであれば、鷹取が単独でできないことではなく、その他つづらを大ふろ敷の上にのせて包むことも死体を全裸にすることも、鷹取が単独でできないという理由は認められないのである。

当裁判所の考えによればむしろ、もし被告人と鷹取とが共同して悦子を殺害したものとすれば、悦子の死体をどのように処理するかにつき被告人も重大な関心を抱くことは当然であり、したがつて両名があらかじめ相談のうえその方法を決定し実行することが通常であつて、その実行に当つて男性である被告人が手をつかねて傍観し、もしくは第三者の手を借りるようなことは、性質上普通考えられないことであるのに、鷹取が二月四日の朝横浜桜木町駅前の職業安定所に求人の申込をし、同所のあつ旋で雇い入れた阿部貞夫に悦子宅の庭先に死体を埋没するための穴を掘らせることにしたことが、同日朝鷹取が単独で思いついてしたことであることは、鷹取が被告人単独殺害説を供述するようになつた後においても一貫してこれを認めていることであつて、司法警察員小野幸江作成の検証調書により、悦子の死体を詰めたつづらの発堀された地点が悦子宅庭先の西方の便所のコンクリート土台より七十糎、南面している廊下のコンクリート土台より僅かに二十三糎のところであり、つづらは天地を逆にしていわゆるさかさまとなつて土中に入れられていたことが認められ、このことはやがて掘穴そのものが廊下よりつづらを突き落してこれに入れることを予定してそれに適当な距離のところに掘られていること及びつづらそのものが廊下より突き落してこの穴に入れられていることを示すものとして、死体を埋没すること自体も鷹取が単独でこれを実行したことを推認せしめるものである(この点は原判決の認定も同趣旨に帰するものと勘せられること。)を合せて考えると、右のことはかえつて鷹取が被告人の手をまたず単独で悦子を殺害したことを疑わせるに十分である。

さらに司法警察員に対する昭和三十一年七月十七日付、七月二十二日付七月二十三日付及び七月二十六日付各供述調書(七月十七日付のものは枚数二十三枚の分)並びに検察官に対する弁解録取書及び昭和三十一年七月十八日付供述調書に跨がつて供述されている鷹取のいわゆる嘱託殺人説は、そのうち悦子と心中することになり悦子の依頼によつて鷹取が先に、悦子に手をかけたとする部分の措信できないことはもちろんであるが、その悦子を殺害した方法、悦子の死体をつづらに入れたりした際の状況及びその後の鷹取の行動に関する供述は、司法警察員小野幸江作成の検証調書及び原審証人小野幸江の供述(昭和三十四年九月五日六十九回公判)により、つづらの中には死体以外に雑誌のようなものが入つており、死体の上には腰巻かスカートのような布切がのせられてあつたと認められるのに、鷹取は白い敷布のようなもので死体を包んでつづらに入れただけで他の物を入れた記憶がないといつていること、つづらは繩でしばりその上をふろ敷で包んであつたとみられるのに鷹取は繩をかけたことについては触れていないこと等両者必ずしも一致しない点のあることは否定できないとしもそれらのことはいずれかといえば些細なことであり記憶の程度、供述の仕方等により左右されることであつて、大綱的なことに関する限りは鷹取の右前腕の傷の瘢痕その他の客観的事実に符合する供述というを妨げないものであり、およそ体験者でなければ単なる想像では述べにくい内容を含んでいると認められ、かつ原審証人柴田敬治の供述により昭和三十一年七月十七日取調官である同証人が同日付でいわゆる嘱託殺人説の調書を作成している際、鷹取に対しそれは嘘であろうと問いかけたところ、鷹取がこれを否定し「その時に悦子さんが苦しがつて私の腕を爪で引つかいた、ここに傷があります」といつて腕を出したことが認められること等をも総合し、なおまた鷹取がその供述を変更して行つた経緯に関する原審証人柴田敬治及び平野幸江の各供述並びに平野幸江の司法警察員に対する昭和三十一年七月二十七日付供述調書を参酌すると、右嘱託殺人説の中にこそ酌みとるべき真実が含まれていると認めることが相当であり、鷹取について原判示のような殺害の動機が記録上十分認められることと相まち、かつまた記録上明らかなように、鷹取が悦子を殺害した事実については、原審公判において終始これを否認し、昭和三十五年二月二十九日原審において懲役十五年に処する旨の有罪判決を受け、即日控訴の申立をしたが同年六月二十九日控訴の取下をして服罪した事実(鷹取は当審証人として控訴の取下をした理由につきいろいろと供述しているが、首肯できる理由ではない。)に徴し、悦子の死体を入れたつづらを悦子宅の庭先に埋没した行為のみならず、悦子を殺害した実行行為そのものも、鷹取が単独でこれをしたものであると認めざるを得ない。

次に、原判決は、被告人らの主張に対する判断の一の(五)において、鷹取が、二月四日午前中穴掘りのために依頼した人夫阿部貞夫を伴つて横浜から藤沢に向う途中横浜駅構内の公衆電話を利用して被告人に対し穴掘人夫を雇つて今から直ぐ行くと知らせる等した事実の認められること及び二月七日被告人と鷹取とが藤沢市内において落合つた際鷹取が被告人に対し妹鵜塚園枝の子供に庭の手入れをさせたと語つた事実が認められることを挙げたうえ、被告人と鷹取との間には悦子の死体を悦子方の庭先の土中に埋没して隠蔽することにつき互いに意思連絡のあつたことがうかがわれるとし、被告人に刑事責任を問うべき謀議の事実があつたとみているもののようである。

しかし、およそ男性である被告人が本件死体遺棄について鷹取との間に謀議を行いながらみずから実行に関与しなかつたというようなことがあるとすれば、それは、経験上異常なことで、特殊の事情がないかぎりこれを認めることができないばかりでなく、本件において特に右謀議のああつたことを認めるに足りる証拠はない〔前記の庭の手入れをさせたと語つた事実は、それが被告人と鷹取とが伊東温泉の大志津旅館に一泊して帰つた日の翌日の二月七日のことであるから、右のことをもつて死体埋没のことにつき両者の間に事前の意思連絡があつたとすることの当を得ないことはもちろんであり、又電話の件については、鷹取は「横浜駅で電話をかけた記憶がないが、証人の方が確かであろう、横浜駅で電話をかけたとすれば被告人の勤務先よりほかないと思う、かけたとすれば右側の青い方の電話である、被告人は電話をかけて東京から直行するぐらいの時間に来た。」と意味あり気に供述している(昭和三十二年七月三日原審二十四回公判)が、阿部貞夫の司法警察員に対する昭和三十一年七月七日付供述調書(原判決証拠番号一四)及び原審証人阿部貞夫の各供述(前同一二及び一三)によれば、鷹取がかけたとみられる公衆電話は横浜市内の赤電話であつたとみられるにかかわらず、当時鶴見の自宅に電話のなかつた被告人が鷹取から電話をうけたことを認めるに足りる証拠が皆無であること(利根川君江の司法警察員に対する昭和三十一年七月三十日付供述調書及び当審証人利根川君江の供述もこの事実を裏付けるものではなく、長岡哲三の日記の二月四日の欄に「一郎風邪気味ニテ昼頃出社ス」とあることも同様である。)等にかんがみ、真実被告人に通じたものとはにわかに信じ難く、このことによつて被告人と鷹取との間に悦子の死体を悦子方の庭先に埋没することにつき事前の意思連絡ないし通謀があつたと認めることは相当ではない。このことは、悦子殺害の点についても同様である。

原判決は、被告人らの主張に対する判断の一の(六)及び(七)において、犯行の直前と考えられる昭和三十年一月三十一日夜から同年二月十一日ごろまでの間及びその後の被告人の行動を逐一認定したうえ、「このように被告人両名は本件事件発生の直前直後互いに行動を共にし、あるいは交互に悦子の実弟榎本信助方を訪問し、もつて互いに意思相連絡して悦子の親族らが悦子の所在不明に不審を抱き真相を探知しようとする行動を始めることを防止し、事件の実覚を遷延させようとする行為に出たものとみることができ、」又「これらによれば被告人はことさら犯行発覚の防止を計つたと認めるべき行動に出ていることがうかがわれるのである。」としているのであり、これら被告人の行動として原判決が認定するところは、その挙示する関係証拠によつておおむねこれを認めることができるのであつて、右被告人の一連の行動ならびに記録によれば、被告人自身認めているように、被告人が昭和三十年九月ごろ鷹取と会つた際同人から悦子を殺したことを告白されたと言いながら、その後逮捕されるまでこれを他人に秘して同人とたびたび往来していた事実によつてみれば、被告人の反対の弁解にかかわらず、被告人は、悦子が既に殺害されていることを知りながら、鷹取としめし合わせて、あたかも自分はそれを知らず悦子の行方を捜し求めているかのように装い、少くとも結果において、鷹取の逃走を助けたといわれてもやむを得ないと認めざるを得ない。

しかし、それだからといつて、右の一事により直ちに被告人と鷹取との間に本件犯行について事前の共謀があつたと認めることができないことはもちろんである(被告人が東京都大山一明という発信者名義で鷹取の実兄鷹取一雄宛に昭和三十年十月二十日付で出した速達親展封書についても、自分と鷹取との関係等が明るみに出ることによつて自分に犯罪の嫌疑のかかることなどをおそれたあまり、口止めを策したものと考えられないこともないので、右の手紙を出したことによつて当然被告人と鷹取との間に共謀の関係のあつたものと認めることはできない。)。

なお、原判決認定の被告人に対する悦子の殺害の動機について付言すれば、鷹取光枝については原判決認定のように、同人が被告人と情交関係を継続しながら悦子に対しては被告人とおじ、めいの間柄であるといつわり、被告人が後に述べるようにその誠実な意思もなく確かな当てもないのに悦子にブラジル渡航のうえ妻と離婚し結婚すべきことを約するや、その事情を知りながらこれを支援するかのように装つて悦子の歓心を求め、やがて、その信頼を得たことを利用し、ひそかに悦子に無断で同人所有の株式や銀行預金のほとんどすべてを処分費消し、果てはその居住する家屋まで勝手に他に売却しようと図るなど数々の背信行為を重ねたことが発覚して悦子を大いに怒らせ、同人から右株式売却、預金払戻等による損害の弁償を強く求められ、昭和三十年一月中旬ごろから同月下旬にかけて両人の仲は極度に悪化し鷹取の立場を窮地におとしいれたため、つい鷹取をして前述のように悦子を殺害する決意を抱かしめるにいたつた動機を記録上十分に認めることができるが被告人については、なるほど前述のような鷹取との関係を秘して悦子に接近し、やがてその誠実な意思もなく確かな当てもないのにブラジル渡航のうえ妻と離婚して同人と結婚すべきことを約し、それが近い将来実現するもののように悦子に思わせてだまし、同人と情交関係を結ぶにいたり、右渡航準備金として二十万円を悦子から受取りながらこれをほしいままに費消したことは、被告人の否認ないし弁解にかかわらず、記録にあらわれた証拠の上からこれを認めざるを得ないし、又鷹取が前述のように不正に悦子所有の財産を処分し、その金が被告人、悦子らを含めての旅行、宿泊費用等にも費消されていることについても、被告人は当時すでにその事情を察知していたのではないかと疑うべき理由も証拠上ないわけではないけれども、鷹取が悦子に与えた財産上の損害について悦子が被告人に対しても鷹取に対すると同様強い態度で鷹取に代り弁償すべきことを要求し、そのために被告人にまで悦子殺害の意思を起こさせるに足りる深刻な対立関係が生じたとは、悦子が同年一月二十日近親者にあてた手紙の内容その他の情況から当時悦子はまだ被告人の真意を十分に知らず被告人に対し確たる不信の念を持つにいたつていなかつたと認められることなどからみて、必ずしも認め難く、もし悦子が死ぬことになれば被告人としてこれを有利とする立場にあつたとはいえ、それだけのことからひいて悦子殺害について鷹取との共謀関係を生じたと断ずるわけにゆかないことはいうまでもない。

これを要するに、被告人は、悦子が鷹取により殺害されるについていわばその原因を作ることに加担したともいうことができるものであつて、その点道義的に非難さるべきは当然であるとしても、被告人に対する原判示殺人及び死体遺棄の事実は、これを認めるに足りる確証がないものというべきであり、原判決は、結局証拠の価値判断を誤つた結果判決に影響を及ぼす重大な事実を誤認したものというべきであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。

(足立 栗本 上野)

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